週刊新潮(2/21号) 中上 紀
『風景への扉』 二年ぶりに訪れた国で、彼と再会した。 湖の傍の町で、彼は観光用ボートの船頭兼ガイドをしながら、日本語を勉強していた。 数日間ガイドを頼むうちに砕けた会話をするようになり、家に招かれて親兄弟に紹介されたりもした。 突然決めたその国への再訪は、独身最後を記念しての旅でもあって、彼には一度も連絡をしなかったが、何となく、また会えるという確信めいたものがあった。 日本から飛行機で半日かかる首都からさらに国内線に乗り、陸路を数時間走ってようやくたどり着く小さな田舎町だからこそ、そんな風に感じたのかもしれない。 予感は当たった。 到着した日、町を歩いていると、偶然彼の兄が自転車で通りかかった。 君が来ているなんて。弟にすぐ知らせなくっちゃ。 兄はそう言うやいなや立ち漕ぎのスタイルで慌しく去っていった。 用事を済ませて宿に戻ると彼が居た。 照れたようなぎこちない笑顔は前と変わってない。 ボートで湖を回り、自分が新しくはじめた仕事のことや、実家の家族のこと、夫となる人のことなどを話しているうちに時間は過ぎていった。 私が二年前に何気なしにあげた銀色のライターを、彼は使っている。 私はライターのことなどすっかり忘れていたというのに、 私の影響で煙草を吸うようになったなどと言う。 湖に浮かんだ小さな島にある仏教寺院で、彼は長い時間祈っていた。 寺院の傍の土産物屋の売り子は、以前に来たときと同じようにしつこく、 淡いピンクとオレンジの中間のような色に染まった湖面を、魚が静かに跳ねた。 ボートを降り、彼に見送られて宿まで歩きながら、 私にも彼にも流れていた二年間は、本当にあったのだろうかとぼんやり思う。 着信を知らせる音楽が流れた時、 私は夫と子供達のために夕食の準備をしている最中だった。 濡れた手をタオルで拭い携帯の液晶画面を開くと、カタカナで登録した彼の名前が表示されていたが、すでに電話は切れた後だった。 あれからさらに長い年月が経過していた。 液晶画面の壁紙は、結婚式の写真から、やがてはじめての赤ん坊の写真となり、いつからか幼い姉妹のやんちゃな笑顔になっていたが、携帯の番号だけは、そのままだった。 彼が、留学生として来日し、空港から電話をくれたのは、もうどのぐらい前になるだろう。 数日後、私と彼は東京で会い、案内がてら新宿や高田馬場を歩いたのだ。 その日以来、彼の姿を見てない。 だが、携帯電話は私たちが生きる個別の日常を、さりげなく繋ぐ。 私が気まぐれに彼の国を訪れたように、 彼も思い立ったように電話をくれる。日本語学校やアルバイトや、最近付き合いだしたという同じ留学生の彼女のことといった、他愛もない普段の生活のことを、彼は語る。 不思議なのは、彼の声を聞きながら脳裏に浮かぶのは、 湖の上でボートに乗ってる彼の姿ばかりだということだ。 ときどき思う。 小さな機械が発する着信音は、ずっとかわらない、いや、 変わらないでほしい風景への扉かもしれないと。 なぜなら、扉の向こうで、手招きをするのは、彼ではない。 彼のいる風景の中で呼吸する、いつかの私なのである。 中上 紀 『風景への扉』 全文 With lots of love by Yuco
by yucoooo
| 2008-06-10 21:38
| story
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